偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第124回「宇喜多秀家・没落を招いたお家騒動の真実」

関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された宇喜多秀家の敗北を紐解く。若くして豊臣政権の五大老に上り詰めながら、没落の契機となるお家騒動を招いてしまった理由とは?

1月24日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第124回「宇喜多秀家・没落を招いたお家騒動の真実」

最年少で豊臣政権の五大老となった宇喜多秀家の敗北から現代に通じる教訓を探る。1572年、備前国の戦国大名・宇喜多直家の嫡男として生まれた秀家は11歳で家督を継承、重臣たちに支えられ、戦国の荒波に乗り出す。飛躍のきっかけは前田利家の娘で羽柴秀吉の養女となっていた豪姫との結婚。主君・秀吉の天下統一に貢献した秀家は文禄・慶長の役でも武功を挙げ、27歳の若さで豊臣政権の五大老の一人に大抜擢された。
1598年に秀吉が、1599年に利家が他界し、秀家が強力な後ろ盾をなくすと、宇喜多家中で家臣団が激しく対立。いわゆる、宇喜多騒動が勃発し、多くの譜代家臣が宇喜多家を去ってしまう。翌年、秀家は西軍の主力として、徳川家康率いる東軍と関ヶ原で激突するが、大敗を喫する。その原因の一つが家臣団の分裂による兵力の激減であったとされる。秀家はなぜ、お家騒動を未然に防ぐことができなかったのか?
関ヶ原の戦いの後、宇喜多家は改易されるも、秀家は薩摩国に逃げ延びる。しかし、潜伏生活が露見し、1606年、八丈島に流された。過酷な生活を強いられる秀家の身を案じ、物資を送り続けたのは前田家に引き取られた妻・豪姫とかつての家臣たちだった。島で別の妻を迎えることなく、質素な暮らしを実に半世紀近くも続けた秀家は84歳の長寿を全うした。秀家はどんな思いで島での暮らしを続けていたのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。