偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第86回「信長と長島一向一揆・織田家の行く末を定めた惨劇」

天下人・織田信長が生涯において最も苦戦した戦いの一つ、長島一向一揆で喫した敗北を紐解く。4年にも及ぶ激戦の末、多くの一族と重臣を失ってしまった理由とは?

4月5日 土曜 20:00 -20:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第86回「信長と長島一向一揆・織田家の行く末を定めた惨劇」

一度に多くの重臣を失い、織田家の命運を左右することになった織田信長の敗北から現代に通じる教訓を探る。1568年、上洛を果たした信長は足利義昭を室町幕府十五代将軍に据え、天下を治めようと目論むが、これに反発する者たちが手を結び、信長包囲網を形成する。その一角を成した、大坂本願寺の顕如は一向宗の門徒たちに呼びかけ、尾張との国境に位置する伊勢の長島で反信長の戦いを起こす。長島一向一揆である。
4年の間に3度行われたこの戦は、信長が生涯において最も苦戦した戦いの一つ。河川が複雑に流れる、独特の地形での戦いに苦しめられた信長は、長島周辺の諸城を落とすも、なかなか攻略することができない。破格の大軍を擁した3度目の戦いで2万人もの人々を焼き殺し、ようやく勝利を手にするが、頼りにしていた親族や重臣の多くを失ってしまった。信長はなぜ、多大な犠牲を払う結果を招いてしまったのか?
1574年、長島一向一揆を何とか鎮圧した信長は翌年、長篠・設楽原の戦いで武田軍に大勝した後、北陸に向かい、越前一向一揆を鎮圧した。一方、顕如は信長に追放された将軍・義昭の求めに応じ、再度、挙兵するが、味方が続々と崩れ、撤退を余儀なくされる。そして1580年、ようやく、その抗争に終止符が打たれた。もし、長島で多くの重臣を失うことがなければ、その後の織田家はどうなっていたのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。