偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第117回「斎藤龍興・信長に美濃を追われた若き国主」

織田信長に美濃国を追われた斎藤龍興の敗北を紐解く。15歳の若さで国主となるも、21歳で稲葉山城を落とされ、27歳で討死した龍興は果たして、愚将だったのか?

12月6日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第117回「斎藤龍興・信長に美濃を追われた若き国主」

下剋上により美濃一国を手中に収めた斎藤道三の孫・斎藤龍興の敗北から現代に通じる教訓を探る。斎藤義龍の嫡男として、1547年に生まれたと考えられる龍興は1556年、父・義龍が祖父・道三を長良川の戦いで討ち取り、戦国の世の現実を思い知る。1561年、義龍が急死し、龍興が15歳の若さで美濃の国主になると、前年に桶狭間の戦いを制した、隣国・尾張の織田信長が美濃への侵攻を開始、龍興は必死に抵抗する。
18歳の時、家臣の竹中半兵衛に本拠の稲葉山城を奪われるという苦い出来事を経験。その後、居城を奪還した龍興は信長と何度も向き合い、善戦するが、21歳の時に居城を落とされ、伊勢国長島への敗走を余儀なくされる。龍興はそれでもめげることなく、京都や越前に逃れ、美濃の奪還を画策するが、27歳の若さで討死してしまった。龍興は強敵・信長を相手に奮闘したにもかかわらず、なぜ、愚将として語り継がれてしまったのか?
斎藤氏最後の当主となった龍興が愚将とされる理由の一つに「遊女を招き、朝晩遊び明かし、家臣の諫めも聞かなかった」という逸話がある。ところが、これは全くの創作であると識者は言う。龍興は勝者である信長や後に信長配下の秀吉の軍師として活躍する半兵衛を英雄に仕立て上げるために事実とは異なる逸話を勝手に創られ、語り継がれてきたというのだ。今、再評価の機運が高まる龍興の真の魅力とは?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。

過去の放送をTVerで視聴