偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第74回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原①井伊直政」

関ヶ原の戦いの先陣を切ったことで知られる東軍・井伊直政の敗北を紐解く。天下分け目の合戦に勝利しながら、敗走する島津義弘隊を追撃し、負傷してしまった理由とは?

1月4日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第74回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原①井伊直政」

徳川四天王の一人、井伊直政の敗北から現代に通じる教訓を探る。1561年、井伊直親の嫡男として遠江国に生まれた直政は2歳の時に父・直親が主君・今川氏真に殺されたため、各地の寺で幼少期を過ごし、15歳で徳川家康の小姓となる。織田信長亡き後、旧武田領をめぐる戦いが起きると、直政は北条氏との講和交渉を担当。主君・家康が豊臣秀吉に臣従した後、小田原攻めで手柄を上げ、上野国箕輪に12万石を拝領した。
秀吉が亡くなり、家康が天下取りへと動き出すと、直政は黒田長政ら有力大名を味方に付けるべく、水面下で交渉にあたる。そして迎えた、天下分け目の関ヶ原。直政による多数派工作が実を結び、家康率いる東軍は見事、勝利を飾る。ところが、勝ち戦が決定した直後、直政は敵中突破を敢行した西軍・島津義弘隊を追撃し、被弾してしまう。直政はなぜ、自軍を勝利に導きながら深追いし、傷を負ってしまったのか?
関ヶ原の戦いの勝利に貢献した直政は戦後、傷も癒えぬまま、敗れた毛利家や島津家との講和交渉に奔走する。そして、石田三成の旧領である近江国佐和山に加増移封された直政はその後、琵琶湖のほとりに新たな居城の建設を計画した。今日の国宝、彦根城である。しかし、直政はその完成を見ることなく、波瀾の生涯に幕を降ろした。名門・井伊家の再興を見事に果たした直政の功績、そして、魅力とは?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。