偉人・敗北からの教訓
ドキュメンタリー/教養
偉人・敗北からの教訓 第72回「真田昌幸・打倒家康の夢破れた軍略家」
天下人・徳川家康も一目を置いた軍略家・真田昌幸の敗北を紐解く。徳川の大軍に二度も打ち勝ちながら、家康を倒すことは叶わず、高野山での蟄居を強いられた理由とは?
12月21日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン
戦国時代、徳川の大軍を二度も打ち破った名将・真田昌幸の敗北から明日を生きるための教訓を探る。1547年、信濃の国衆の家に生まれた昌幸は幼い頃、甲斐の武田信玄の薫陶を受けて成長。長篠・設楽原の戦いで二人の兄が戦死した後、家督を継ぎ、武田家の宿老格となるが、武田家が滅亡すると、織田、上杉、北条、徳川と従属先を変えながら生き残りを図る。沼田領を巡り、徳川家康と対立すると、見事、徳川軍を撃退した。
その後、豊臣秀吉に従属するが、秀吉の死後、豊臣大名が二分して争うと、昌幸は次男・信繁と共に西軍に与する。上田城で徳川秀忠率いる大軍と戦い、勢力を削ぐことに成功するが、関ヶ原の戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わり、昌幸は上田城の明け渡しを余儀なくされる。その後、高野山での蟄居生活を強いられ、打倒家康の夢を信繁に託し、静かにこの世を去ることに。昌幸が家康に勝利する方法はなかったのか?
徳川の大軍を打破した拠点・上田城はその後、家康によって徹底的に破壊された。真田氏の居城とはいかなる城だったのか?高野山に配流された昌幸は健康を損ね、次第に衰弱していったが、そんな苦境にありながらも、いつか徳川と豊臣の合戦が起きると予測し、信繁に戦い方を伝授していたという。流罪となって11年、昌幸は65歳で生涯を閉じる。信繁が高野山を脱出し、大坂城を目指すのはその3年後のことだった。
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
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