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ドキュメンタリー/教養
偉人・敗北からの教訓 第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」
徳川家康を父に持つ江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北を紐解く。関ヶ原の戦いへの遅参という大失態が大坂の陣に及ぼした影響とは?秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?
6月29日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン
![偉人・敗北からの教訓 第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」](https://api2.bangumi.org/repix/monomedia/pgmst/342/media/onair/20230615/a377d2cf-018f-4408-bbad-4e3a958d6261.jpg?copy=(c)%20BS11)
江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。
1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか?
大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。
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第50回「徳川秀忠・関ヶ原遅参と大坂の陣」
【BS11(イレブン)にて毎週土曜よる9時から放送中!】 江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の敗北から現代に通じる教訓を探る。徳川家康の三男として生まれながら嫡男となった秀忠は、父・家康から多大な期待を寄せられていた。豊臣秀吉の死後、家康が天下取りへの野望を露わにすると、秀忠は信州・上田で真田氏との合戦に臨み、あと一歩のところまで追い込む。そんな中、家康から上洛命令が届き、秀忠は急いで中山道を西へ進むが、関ヶ原の戦いに間に合わず、勝負は秀忠抜きで決してしまう。 1603年、征夷大将軍に就任した家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握る。そして、1614年、徳川政権を脅かす豊臣家との決戦を決意する。家康は駿府を出陣し、西へ向かうと、江戸にいる秀吉にも出陣を命じる。ところが、秀忠は大坂の陣に向かう際、大軍を急行させ、疲弊させてしまい、家康に強く叱責されてしまう。秀忠はなぜ、無理な行軍をさせたのか? 大坂の陣で豊臣家が滅び、翌1616年、家康がこの世を去ると、秀忠は武家諸法度などの法を整備し、それに背いた諸大名を容赦なく処罰するなど、将軍としての主導力を発揮する。父・家康が目指した路線を継承し、徳川幕府の基盤を固めたのは秀忠の最大の功績であり、その結果、史上最長の武家政権が維持されたと言える。もし、家康が秀忠の将軍就任直後に亡くなっていたら、歴史はどう動いていたのか?
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